2015年3月13日金曜日

僕が「発達」という視点に惹かれる理由

発達理論の難しいところは、ある発達理論もまた、ある発達段階から記述されたものに過ぎないというところである。

「人間の発達は〇〇である」という言明は、話者の発達段階からの見識である以上、話者の発達の程度によってもまたその内容は変化しうる。
例えば、単線型のはしごモデルは、古典的な発達に関するメタファーであるが、これは合理性段階の思考と親和性が高いように思われる。
それに対し、カート・フィッシャーのようなウェブ(網)状のモデルは、人間に発達というものをよりメタに、ホリスティックにとらえている点で高次の発達段階と親和性が高いように感じる。

しかし、最初に述べたように、それもまた、ある発達段階から見た発達論なのであり、どちらかが絶対に正しいという話ではない。
そのように考えると、単一の発達理論に執着することは、それ自体発達に対する理解を欠いているといえる。

つまるところ、あらゆる発達理論は人間の限界を伴った認識にもとづいているため、「そのように発達している」というのは、「そのように発達しているように私が見ている」ということなのである。
そして、見ている私もまた、発達している動的な存在であり、本質的な意味で静的な構造が存在しているわけではない。
発達という概念は、人間が世界を認識するときに使う一つのフレームワークなのである。
世界がそのようにあるのではなく、人がそのように見ているからそう見えるだけであって、そこを履き違えると世界の真実をそこに見たような誤謬を犯す。


それでも僕が発達理論に惹かれるのは、発達という視点は世界に在るものを包摂する考え方であるからだ。一見矛盾しているように見える様々な概念や理論、考え方が、発達という視点で捉えることで全てあるべくしてあったものとして世界に位置付けられる。
それは、自らが個人として世界と対峙しているのではなく、空間的・時間的に世界に織り込まれ、また世界と一つであるという感覚へと至る道である。
発達という視点は、世界を統合するための考え方なのである。

自分が日々生きている世界を丁寧に生きること。目を背けないこと。
その姿勢が、発達していく存在としての自分と、発達していくように見える世界の在り方とを結びつける、人間の本来的な在り方なのではないかと思うのである。





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