2015年2月12日木曜日

ピースビレッジ第29回「変容の時代を生きる」参加してきました。

以前知人に勧められたNGO世界連邦21世紀フォーラムの講座に参加してきました。
講師は木戸寛孝氏。
色々と興味深いお話が聞けた一方で、整理のつかない部分もあるのでつらつらと書きながらまとめてみます。

愛と力の動的平衡

まず、木戸氏によれば、21世紀の課題は関係性、全体性を重視する愛的なものと、主体性、個別性を重視する力的なものの分断であるという。
これは、冷戦における東と西、社会主義と民主主義、自然と人間、都市と郊外、心と身体といった対立と相似する。


木戸氏は、世界創造マップという図式の中で、外側(空間性)―内側(時間生)という軸と、横(水平)―縦(垂直)というマトリクスの中でこれらを整理していた。
内側・時間性に属するのは、人の心や意識などミクロな構造であり、外側・空間性に属するのは生命や物質、自然などのマクロな構造である。
横・水平とはすなわち全体性、関係性であり、縦・垂直とは個別性、主体性を指す。
世界創造マップについては簡単にしか触れられていなかったので、もう少し含意のある分類だと思われるが、そこまでは理解できなかったのでひとまずこれは置いておく。

愛は、関係性や全体性を志向するため、共同体の一体感や平等を重視する。
一方で力は、個別性や主体性を志向するため、自己実現や自由を重視する。
これらは相互に作用すべきものであり、片方のみが行き過ぎてしまっては、破壊的な共産主義や資本主義のように、どこか歪んだ思想となってしまう。
そこで、重要なのは「動的平衡」という概念である。

動的平衡とは、やじろ兵衛や人間の歩行のように、静的ではなく、短期的に見れば常にバランスを崩しているように見えながらも、その絶え間ない動きによって全体としてバランスを保つという状態のことである。
関係性と主体性に単に50%の力を配分すれば良いというわけではなく、常に省察を繰り返しながら前に進み、変化していくという在り方を提案しているのだとここでは理解した。

この動的平衡という概念は、自分の思考のフレームワークとしてはこれまであまり使ってこなかったが、色々な場面で用いることができそうだ。
確かに、人間の所謂成長というものは、既存の価値観に対する反抗や否定の反復という側面を持つ。
そうした発達のメカニズムは、微視的に見れば各段階でその都度危機に陥るものの、確かに全体としてみれば調和のとれた形となっている。

ちょうど講演会へ赴く電車の中で、オートポイエーシスについて書かれた本を読み始めていたため、この動的平衡という概念が奇しくも講座の中で出てきたことに驚いた。
木戸氏のこうした洞察は、下記に述べる自然観と密接に結びついているが、動的平衡という生物学のシステム論で用いられるような概念を援用していることも納得がいった。

現代における自然観のシフトについて

話は古代ギリシャと中世のベーコン、デカルトによる科学観、自然観の対比へと映る。
古代ギリシャにおいては、科学と倫理は切り離せないものであった。自然とは支配するものではなく、観察するものであり、そこに見いだされる真理と、善や美といった概念は結びついていた。

しかし、17世紀のヨーロッパにおいては、地動説を説いたブルーノは火炙りにされ、ケプラーの母親は魔女だと言われて迫害され、ガリレオは異端審問にかけられた。
その結果、科学は宗教的対立や倫理を離れて中立的として研究したいという思いが科学者の間で強まっていった。

そこに決定的な思想的要因を与えたのが、ベーコンやデカルトの思想であり、これらによって「自然は人間にとって利用され、支配されるもの」になった。

それに対し、現代では自然は「創発的自己組織系」として捉える見方が生まれてきている。
自然は単なる機械とは違って、自己組織化の力を持つ。
それは、主体的に自らの対称性を破ると同時に、分化した要素が互いに関係性を持って動的平衡を保つというダイナミクスである。
例えて言うならば、我々の身体は機械とは違って、呼吸によって”酸化した”細胞も自然と入れ替わるようにできている。人間の細胞は数年もすればほぼ入れ替わると言われているが、変化しているにもかかわらず、全体としては一個の個体として一貫しているのである。

こうした動的平衡の力動論が、自然においても人間においても同様に働いているという洞察が、人間対自然という図式を越えて、有機体全体にアイデンティティを持てるような世界観へと繋がっている。

なぜ自然観のシフトが現代において必要なのか?

このような自然観の転換は、現代に生きる我々にとってどのような示唆を与えてくれるのか?
人間対自然という対立ではなく、人間も自然も創発的自己組織系の一部として、主体性を持ちつつも関係性の中に位置付けられているという自然観の変容は、真に自然と共生する社会を実現するために必要不可欠である。

木戸氏によれば、2050年には、地球の人口が100億人に達するそうだ。
そうなると、必然的に水が足りなくなり、間違いなく争いが起きる。
世界連邦を志す人々は、こうした危機感を共有しているようだ。
だからこそ、今の時代に必要なのは、「生命」というものをコンセプトにした新しい世界観であると主張する。

生命とはつまり、存在の前提である。
自己実現も平等も、存在なくしてはそもそも論じることすらできない。
その前提が、実はあと100年もしないうちに崩れ去ろうとしている。
その危機を乗り越えるためには、こうした新しい世界観が必要なのではないかという木戸氏の主張は、至極妥当なものだと感じた。

インテグラル理論との関係と考えたこと

木戸氏の話を聞きながら、終始思い出していたのはウィルバーのインテグラル理論である。
インテグラル理論では、地球規模で人類全体に対する愛を持てるようになった段階の先に、自然を含む有機体全体に対する帰属意識というものがあるという。

人間同士であれば、究極対話することによって理解しあうことができる。
しかし、自然とは対話することはできない。つまり、これは自然に対する認識の問題なのである。

最近流行しているソーシャルビジネスなどは、社会における弱者に目を向けている点で、人間全体に対してアイデンティティを持っている運動だと思われる。
その先にあるものとして、自然と人間もまた同じ全体であり部分であるという世界観が存在するのではないだろうか。

教育とは人と人との関わりであるという側面が強調されることが多いが、人は自然の一部でもある。
教育は子どものためであるとか、いや社会のためだとかそうした対立は、どこか不毛で空虚に感じるし、そうした対立を実は子どものためであることが社会のためなのだと弁証法的に解決したように見える考え方も、結局は人間同士の世界の話で完結している。
自然と人との相互作用を考慮に入れない教育は、やはりどこかで持続可能なものではないのかもしれない。

今回の講演で聞いた話は、頭では非常に納得できるものであったが、同時にまだ実体験として腑に落ちていないという感覚もある。
また、参加者の一人から精神障害の人を包摂する理論になっていないのではという指摘があったが、これも僕がインテグラル理論に対してずっと感じてきた疑問の一つであり、まだまだ答えを出せていない。
焦ることでもないから、自然というものに対して少し意識したりしてみつつ、自分なりにもう少し咀嚼してみたいと感じた。

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