2016年4月10日日曜日

田中智志・山名淳編、2004. 『教育人間論のルーマン―人間は<教育>できるのか』

半分も理解できている自信が無いが、気になったこと、考えたことをメモしておく。

ルーマンの「自己創出システム理論」

ルーマンの自己創出システム理論について語る上でのキーワードと思われるものを幾つかまとめてみる。

「システム」「複雑性の縮減」「機能的分化」

ルーマンの理論におけるシステムとは、複雑性を縮減することで内と外を区別する同一性のことを指す。システムが生まれる前の世界観は、過剰な可能性に満ちたカオスであり、こうした状況に対処するために人間は「システム」によって文脈を作り、複雑性を縮減しようとする。

機能的分化社会とは、近代以降の複雑性が増大した社会において、経済システムや法システムといった、機能ごとに分化した社会システムが存在している社会のことである。
教育もまた教育システムとして、これらの社会システムのうちの一つとして位置づけられる。

「コード」「プログラム」

コードとは、システムが自分の機能を把握し調整する装置としての「意味世界」を特徴づける二値区別(A/非A)のことである。例えば、経済システムにおけるコードは(支払い/不支払い)、(所有/非所有)である。意味世界においては、肯定値が自明化する。

ルーマンによれば教育システムにおけるコードは(選抜される/されない)である。
「人間形成」や「陶冶」などは、コードではなく、コードの肯定値を実体化させるための「プログラム」の主題であるとされる。プログラムは、具体的な実践計画であるが故に、多様である。

「構造的欠如」と「テクノロジー欠如」概念の導入の意義

ルーマンの教育論を語る上で、「テクノロジー欠如」という概念がよくあげられるのは知っていたが、「構造的欠如」については本書で初めて知った。
「教育テクノロジー」とは、「因果の連鎖を顧慮しながら被教育者の変容をコントロールする技術の総体」(p. 137)であり、「テクノロジー欠如」とは、教育においてそのような「テクノロジーの名に値する一連の手続きは認められない」という教育システムの特性のことをいう。

平たく言えば、どんな状況であっても、どんな子どもであっても、このような方法を用いれば教育目的が達成される、という技術は、教育においては不可能であるということである。
なぜならば、教育という営みは生徒個人の心的システム(生徒個々人の内面=教育される対象もまたルーマンによればシステムとみなされる)の変容を求めるものであるが、心的システムは自己準拠のシステムであるがゆえに、直接そこに教師が介入し変容を起こすことはできない。
せいぜい可能なのは、システムが他のシステムと関連しあう「構造的カップリング」の状態を通じて影響を与えることぐらいである。

こうしたテクノロジー欠如の状況にあっては、テクノロジーの代わりに「因果プラン」が採用される。
因果プランとは、科学的に真理とはいえないが、こんなときにはこうすればうまくいくだろう、という擬似的な因果関係のことを言う。教師の実践知と言ってもよい。
このような因果プランが生まれるのは、成功が保障されていないにもかかわらず、手探りで成功の条件を模索し続ける教師の「アクラシア」という態度による。

このようなテクノロジー欠如は、教育システムの根本的な「構造的欠如」に端を発している。その欠如とは、「社会化の企図化」というパラドキシカルな企てである。社会化は、個人の心的システムの内部にしかその契機を持たないからである。

しかし、こうした構造的欠如故に、教育システムとその意味世界は存在することができる。
不可能であるはずの社会化の企図を実現しようとするが故に、教育システムは多様な意味世界を持ちえる。この意味で、ルーマンは構造的欠如を決して「打開するべき状況」ではなく、肯定的なものとして捉えていると本書では語られている。

構造的欠如、テクノロジー欠如といった概念を持ち込むことによって、ルーマンが意図したのは教育学と他の理論との交流である。テクノロジー欠如という自体は、伝統的な教育学の意味世界では「子どもが本来的に持つ自由」として捉えられるが、このような多様な意味世界の存立機制としての構造的欠如を認識することによって、同様に構造的欠如を抱える他のシステムにおけるテクノロジーに関する理論を援用できる可能性が高まるのである。

非営利セクターにおけるルーマン適用の可能性

自身がNPOに関わっていたこともあり、非営利セクターにルーマン理論を適用するとどのように理解されるのだろうか、ということを読みながら考えていた。
非営利セクターを一つのシステムとみなすのであれば、(弱者への支援)あるいは(公平性)というものがコードになるのだろうか。また、同時に仁平典宏先生の「贈与のパラドックス」のような構造的欠如を抱えていると言うこともできる。

しかし、そもそも非営利セクターは一つのシステムとして捉えることができるのだろうか。
一口に非営利といっても、実際の活動内容は多岐にわたる。ホームレス支援と学習支援、障害者支援などをひとまとめにすることはできるのだろうか。むしろ、政治システム、福祉システム、教育システムなどの一つのプログラムとしてとらえた方がよいといえるかもしれない。

このあたりはもう少し勉強しないとなんともいえないところだが、個人的には新たに下位分化しつつあるシステムとして非営利セクターを捉えるのは面白いのではないかと思っている。

インテグラル理論との接続

本書の終章で田中智志先生は、「大事なことは、陳腐な表現であるが、懐の深さを持つことである。」と述べている。これは、ルーマンが子どもの自己創出性を承認するところに教育の可能性を見出したという前章からの内容を引き継いでのまとめとしての言葉であり、教育の不可能性を無視するのでもなく、ニヒリズムに陥るのでもなく、「教育の可能性」へと進むことを支持する記述であると思われる。

ルーマンが言うように、絶えざる生成として子どもをとらえたとしても、現実に一定の程度において「知識は獲得され、蓄積される」ように見えるのであり、我々は優秀さを可視化されたものとして認知することで現在の社会を運営している。そうした側面も、両方大事にする「懐の深さ」が大事なのである。

ウィルバーを用いて補足するなら、それはまさに原理的に我々が抱える、現象に対する視点の盲点の問題である。ウィルバーは四象限という図式によって、我々が世界に対して持ちえる観察の視点は個的―複数、内面―外面のマトリクスで表される4象限のみであり、それぞれが構造的な盲点を内包していると説明している。
懐の深さを持つためには、我々が世界と関わるための視点が限定されているという気付きが重要なのではないだろうか。













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