2016年3月2日水曜日

インクルーシブ教育についての勉強会をやってみて考えたこと

先日、所属するNPOの人々とインクルーシブ教育についての勉強会を開催した。
その際に考えたことなどについて軽く自分用にメモしておく。

イメージできない人々こそ真に抑圧されているということ

勉強会では、日本におけるインクルーシブ教育に焦点を当てたため、特別支援教育についての話が多かった。視聴覚教材として発達障害についてのビデオなどを取り上げたため、議論の中身もそうした内容に寄ってしまった部分もある。

発達障害がそもそも近年注目されている一つの要因は、それが「新たに発見された」障害であるからだ。
もともと、ADHDや自閉症スペクトラムなどと言われるような障害は、クラスに一人ぐらいはいる「変な子」として認知されていた。つまり、障害があるとは思われていなかった。
発達障害は、「見えにくい」障害だったからこそ対応が遅れたのであり、当事者はずっと苦しめられてきたのだ。

ここから考えると、インクルーシブ教育において求められるのは、未だ想像すらされていない状況にある人々こそ、本当に抑圧されているのであり、そうした人々を包摂していこうとし続ける態度なのではないかと思う。
単に、発達障害の子どもとそうではない子どものニーズがすべて満たされている状態を実現することがインクルーシブ教育ではないのである。

すべての人にとって了解されなくては意味が無い

教育者としてインクルーシブ教育の理念をどう実際化するか、というのは実践的な問いであるが、教育する場においてのみインクルーシブであるということは、そもそもの理念からして矛盾する。

教室で教師がいくらインクルーシブ教育的な実践を成立させていても、子どもたちだけで遊ぶときに排除が起きていては意味が無い。
つまり、インクルーシブ教育の理念は、教育者が教育意図として持っていても意味がなく、すべての人にとって了解されるものでなくてはならない。

しかし、例えばADHDを持つ子どもの衝動的な行動が、他の子どもに不快感を与えるという事実は無視することはできないし、それを禁止することもできない。それを禁止した瞬間に、そもそもインクルーシブではなくなる。

決して排除を擁護するわけではないが、排除が起きる背景には、個人的感情などの理由が必ず存在するし、そうした感情を持つことは尊重されるべきである。

前項でも述べたように、肝心なのはインクルーシブ教育の要諦が、「インクルーシブ」とされる状態を志向し続ける姿勢にあることだ。
個人が他者の行為から不快な感情を喚起させたという事実は否定することなく、その上でどのような態度をとっていくのか、という次元においてインクルーシブ教育の理念は機能する。

そこを踏まえずに単にインクルーシブ教育を金科玉条のように押し付けていては、何も乗り越えていないことになる。

インクルーシブ教育と「自己決定の尊重」

ここまで考えると、インクルーシブ教育を成り立たせている基底には、「自己決定権の尊重」が含まれているように思われる。
当然といえば当然の話なのだが、インクルーシブ教育が成立すると信じるには、人間は感情や思考に支配されることなく、それらを包含した上で「態度を自己決定することができる」という人間観が必要である。

社会的に排除されている人々が私達の想像の範疇にも及ばないところにまで存在している。
それに対し自分はある意味特権的な”立場”にいる。
抑圧されている人々とのコミュニケーションは、自分にとって不快なものである可能性がある。

そうしたことを自覚した上で、私達はどんな態度をとるべきなのか?という問いかけが、インクルーシブ教育が私達に投げかけているものなのではないだろうか。
態度の次元の話だということが理解されないと、結局インクルーシブ教育は画餅として終わっていくのではないかと思った。

「態度」の合意形成と抑圧

では集団としての「態度」はどのように合意形成されるのか?
ここで注意しなくてはいけないのは、「インクルーシブ教育的な理念に賛同するに至った」ということ自体が一つの特権である可能性である。

例えば、その日一日の食事の調達にも苦しむほどの状況にある人々に対し、インクルーシブ教育の理念を説いて賛同してもらえないからといって、その人を責めることができるだろうか。

インクルーシブ教育などというものについて論じることが出来る時点で、これまで社会の中で十分に包摂されてきた人も、被抑圧者の側にいると自認している人も、共にある種の特権的な立場にあると考えるべきである。

特権的であるということ自体が悪なのではない。
そういう立場にあることを自覚した上で、現実にどんな態度をとるかという話なのだ。

そのように考えると、合意形成において重要なのは、如何にしてインクルーシブを是とするに至ったのかというプロセスを共有することに他ならないだろう。多少迂遠に思えたとしても、インクルーシブという理念に至ることができた道のりこそを省察し、語っていくことが必要なのではないか。
そしてそのプロセスを一般化できた時に、仕組みとしてのインクルーシブを実現する体制を構築することが可能になるのではないだろうか。





結論としていささか面白みのないものになってしまったが、引き続きインクルーシブ教育については時間を見つけて勉強していきたいと思う。

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