2015年6月19日金曜日

弱さについて

人の弱さについての思索。

社会的弱者は、様々なハンデによって、この社会で「弱い」とみなされている人々である。
それは身体的なハンデの場合もあれば、経済的、心理的など様々なものがある。
こうしたハンデを個性として捉える向きもあるが、何がハンデであって何が個性なのかという意味論は究極的には個人の主観的価値付けでしかないから、ここでは踏み込まない。

リベラルな人々は、こうした社会的弱者を排除する様々な言説に異議を申し立てる。
それは、尊い行いであると素直に思う。

一方で、社会的弱者を排除する人々は、なぜ排除するのだろうか?
異質で理解できない弱者に対し、「気持ち悪い」と遠ざけたり、「自己責任だ」と突き放したりする彼らは、何を考えているのだろうか。
彼らに、「排除せざるを得ない」事情はないのだろうか。
彼らが社会的弱者を抑圧してしまうのも、また一つの「弱さ」なのではないだろうか。

その弱さに共感することなく、単に抑圧を激しく攻撃するのであれば、それは社会的弱者を排除する論理と根本的なところで何も変わらないのではないだろうか。

排除を肯定するつもりは毛頭ない。
しかし、そうした弱さを抱きしめられるような余裕のような何かが、今の社会には決定的に欠けているように思う。
この弱さという悪は、決して無くなることのない、私たちが共存していかなければならないものだと思う。

その弱さを肯定できるのは、おそらく「強さ」ではなく、もっと根源的な何かなのではないだろうか。
強弱の二元にこだわっている限り、解決の糸口は見えてこないように感じるのだが、かといって確からしいものもつかむことができない。

ひょっとして、霊性とか超越性とはそういったものなのかもしれないが、今の自分にはよく分からないので、時間をかけながらゆっくりと探していきたいと思う。

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