2014年10月20日月曜日

インクルーシブ教育の語られ方に対する懸念

昨今、教育界隈でよく聞かれるトピックの1つが、インクルーシブ教育である。

僕は専門外のど素人であるため、ここではインクルーシブ教育とはなにか、という問い直しについて深く言及することは無いが、端的に言えば障害を抱えるとされる子どもたちとそうではないとされる子どもたちを包括的に教育していく思想ということだろう。

そこには、特別支援教育や伝統的な学校教育がそれにフィットしない子どもたちを如何に傷つけ、その可能性を押し込めてきたかという憤りにも似た感情を感じる時がある。

よく聞かれる言説として、例えば教室で授業中ずっと座っていられない子どもを「問題児」とみなして指導する学校教育を批判し、そうした子どもたちがある分野では群を抜いた才能を発揮することなどを挙げ、子どもの多様な可能性をもっと承認していくべきだというものがある。

これについては大いに共感するところだが、少々怖さを感じるのは、その背後にあるであろう「リベラル」な価値観である。

既存の学校現場で”迫害”されてきたような子どもたちの可能性に気づける人は、概して自由で発達した価値観を持っていると思われる。
しかし、そうした価値観は当の子どもたち自身に共有されているかどうかは分からない。
発達的に言えば、前者は比較的発達段階の進んだ人々とみなしうるが、子どもたちはもっと低次の発達段階である可能性が高い。

彼らが「子どもたちはこんなに傷ついている」というのは、彼らの価値観から教育現実を語った一つの物語に過ぎない。子どもたち自身が、どのように感じているかは分からないのだ。

子どもの時は苦痛でしかなかったようなことが、大人になってから意味がわかり、むしろその頃に感謝することができた、などという話はよく聞かれる。
また、椅子に長時間じっとして座ることは、小学校低学年段階の子どもにとって「ルールに従う」力を身につける重要な発達課題である、という主張も可能である。

僕は子どもの意思を無視した教育が正当だとも、それを推進すべきだとも言っていない。
仮に子どもの意思や主体性と反した教育が為されるとしても、人間としての尊厳を傷つけない範囲においてのみ行われるべきなのは当然のことだと思っている。

ただ、高次に発達した自由で受容的な価値観を持つ人々の、「子どもたちへの共感」という幻想に拠ってインクルーシブ教育が推し進められていくのだとしたら、それは必ず大きな過ちを犯すと思うのだ。
なぜなら、それは「子どものため」という皮をかぶった、多様性尊重主義の人々のための教育であるからだ。

そうした感情論ではなく、教育科学や医学の知見を土台にした骨太のインクルーシブ教育を志向する流れは、日本ではそう多くはない。
また、理念的に本来もっとつなげて語られても良いと思うシティズンシップ教育や公共性との統合もあまり進んでいないように思える。

こうした批判を重々自覚しながら、常にリフレクティブにインクルーシブ教育を問いなおしている真摯な人々に期待しつつも、
多様性尊重論が、多様性とはつまるところ何なのか?という問いに答えないまま、弱者への共感や思いやりと結びついた時の暴力性に、どうにも寒気を覚える今日このごろである。

2014年10月15日水曜日

「できること」と「やりたいこと」を分けた就活観

就活について、大学二年生の今、考えてみたい。

僕達の世代は、「ブラック企業」に代表される長期間労働を強いられる正社員の様態や、それにとどまらない「ブラックバイト」や派遣問題など、正規社員並みの過酷な労働を強いられる非正規労働者の問題、更にニート問題など、就職に関して、まるで夢の無いばかり聞かされている。

そうした問題に対して、小中高では文科省主導のキャリア教育がもてはやされ、大学生はインターンシップに精を出す。


僕の周りには、高学歴に属する友人が多い。正確には”高学校歴”である。
彼らも、就活に悩んでいる。
日本型新卒一括採用システムは崩壊したなどと言われつつも、高学校歴が就職市場である程度存在感を持つのは変わっていないし、大学や高校に行けない人々からしたら憎々しい悩みかもしれない。

彼らと話していると、その悩みの多くは、結局のところ「自分のやりたいことが分からない」というものであると感じる。
キャリア教育も、就活支援サービスも、盛んに自己分析を勧め、転職を前提として将来やりたいことを仕事にすればいいというキャリアプランを”正解”として突きつけてくる。
しかし、実際問題として、大学生程度の狭い視野では自分の適職など分かるわけもなく、やりたいことが見つからないと立ちすくむ大学生達の姿がそこにある。

そうした問題に対して教育という観点から論じるならば、本田由紀氏が言うように教育の職業的意義を充実させていくこと、労働者として<抵抗>できるための知を養うことや、児美川孝一郎氏が言うように教育内容における職業的レリバンスを高めることなどは必要な措置であるように思われる。


さて、こうした状況に置かれている学生たちは、とにかく「自分」を起点として就活を考える。
自分にとって良い環境かどうか、自分のやりたいことに職務が適合しているかどうか、そうした自分主体の価値観が当たり前のように横行している。
果たして、職業というものは自分のやりたいことをするべきなのだろうか?

僕は、自分の「できること」と「やりたいこと」を区別して考えている。
そして、仕事にするならば「できること」で良いのではないか、と考えている。
つまり、仕事というものを自己実現の手段ではなく、「人助け」の手段として捉える。
「やりたいこと」は仕事以外の余暇を使って追求すればよいのではないかと思うのだ。

若者の社会起業に対する関心の高まりについて論じられることがあるが、そうした潮流に両手を挙げて賛成しているというわけではない。
むしろ、仕事というものは本質的に誰かの役に立っているものである、と思うのだ。
だからこそ、自分のできることを仕事にする、という在り方は自然な在り方であるような気がする。

もちろん、かといって個人の意思を無視して各人の能力に合わせた職務を配分しろなどいうつもりはない。
また、やりたいこととできることを非凡な努力と運で実現させている人々も少数ながら存在する。
そうした生き方に憧れる気持ちも理解できる。


しかし、今のキャリア教育は、自分のやりたいことを見つけ、そのための能力を身につけるという一つのやり方のみが正解として押しつけられているように思われる。こうした価値観に緊縛された若者たちは、「本当にやりたいことが存在する」という根拠なきゴールを方策もわからず追い求め、疲弊していくのみである。

教育がすべきなのは、やりたいことを見つける支援のみならず、できることを増やしてあげる、ということなのではないか。その両輪を成立させてこそのキャリア教育ではないか。

やりたいことが見つからないという不安は、自分が何も出来ないということの不安と表裏一体のように思う。
教育は、社会の資源である若者達に、「できること」を増やしてあげられる装置であり、そうした「できること」は、社会にとって役に立つことだと、君たちは役に立つことができるのだと、伝えることができるはずだ。
そうした教育を基盤として、やりたいことの探求ができるような道筋(例えばリカレント教育など)を用意してあげられれば良い。
柔軟な専門性とは、個人にとって有用であるのみならず、社会にとっても有益な能力であるという認識、被教育者に対するメッセージングが必要なのではないか。

やりたいことを仕事にするというキャリアパスの他に、できることを仕事にするという道筋もある、という考え方は、共同体主義であるという指摘もあるかもしれない。しかし、僕はむしろ、若者の「挑戦」を可能にする「安心」をもたらすのではないかと考えている。
何か「できること」があるからこそ、自分のやりたいことに向かって挑戦する、という方向に思い切って舵を切れるのではないだろうか。

こうした考え方を実質化するには、もちろん余暇の拡大や職種間差別解消などの問題を乗り越える必要があることは重々承知している。
しかし、こうした課題をすぐに解決するのは難しい。
今個人ができることは、少なくとも「仕事をする」という行為が、自分にとっての自己実現の手段としてのみ捉えるのではなく、どこかの誰かの役に立っている、という感覚を持つこと、そうした価値観も受容し、既存のキャリア教育的思想を相対化して見ることだと思う。

2014年9月30日火曜日

「なぜ国際バカロレアなのか?」の個人的要点まとめ

日本の教育界一大トレンドである国際バカロレア(IB)について、個人的な要点をまとめてみる。
身の回りの知人や友人の間でも、IBに対する関心は高く、導入の意義や是非について多く意見を聞いた。
そうしたなかで、今現在の自分の中でのIBに対する理解をまとめておきたい。
(IBの概要については、ここでは言及しない。入門としては、坪谷ニュウエル郁子著『世界で生きるチカラ』などがおすすめである。)

①既存の評価・選抜システムの相対化

IBは、後期課程(DP)に限ればすでに世界で100カ国以上で導入されている、「権威」づいたプログラムである。
オックスブリッジやアイビー・リーグが認めている評価基準は、日本の東大を頂点とした受験システムを相対化するだけの権威がある。
それは、これまで学習指導要領の体系の中では評価されにくかったが、IBにおいては評価されやすいという子どもが救われることを意味している。
言うなれば、これまで文部科学省主導で定められていた”学力観”というものさしが、唯一絶対のもではなくなることで、既存の教育からはみ出していた子どもたちの一部が社会的に認められる教育達成を実現できる可能性が生まれるのである。

②国際バカロレアを突破口にした多様な教育機会の保障

前項と関連して、よく勘違いされているのが、「国際バカロレアはグローバルで先進的で、学習指導要領よりも素晴らしいから沢山導入するべきだ」という考え方である。
しかし、これについては日本における国際バカロレア導入を推進する、国際バカロレア機構アジア太平洋地区理事の坪谷ニュウエル郁子氏が明確に否定している。

坪谷氏は、「国際バカロレアを突破口として、子どもたちに多様な教育を選択する機会を提供したい」と語っていた。

IBに限らず、シュタイナーやモンテッソーリ、自由学校、サドベリー、その他フリースクールなど、オルタナティブな教育というものはすでに存在している。しかし、日本におけるそうしたオルタナティブ教育を行っている教育機関の割合は、全体の1%にも満たない。
例えば教育先進国と呼ばれるオランダなどでは、約1割程度がこうしたオルタナティブな教育を提供している。

どの教育が本当に優れているかどうかは、その教育を受ける子どもによって異なるという前提を認めるならば、真に求めるべきはより良い全国画一的な教育プログラムではなく、多様な教育プログラムを選択できる可能性を平等に確保することであろう。

そうした意味で、坪谷氏はIBを絶対的な良いものとしてではなく、あくまで選択肢の一つとして、日本の画一的な選抜システムを戦略的に揺さぶろうとしている。

③教員の創造性を重視する仕組み

IBの特色として、教員が扱う教材は教員自身が決めることができるというものがある。
カリキュラムのテーマに沿ってさえいれば、何を用いて指導するかは教員が決めることができる。
その際、IBコーディネーターと呼ばれる人が、教員とディスカッションなどを交わしながら、教員の指導計画がIBのカリキュラムに沿うものとなっているか、指導の目的と手段が合致しているかなどのクオリティ・コントロールを担う。
しかし、IBコーディネーターはあくまでも教員の創造性を最大限に活かすために対話を行うのであり、コーディネーターが教員に対して「このようにやりなさい」と言うことはない。

ここに見られるのは、教員の有能性を信じ、教員が最大限能力を発揮することが結果的に子どもたちにとっても最大限良い影響を与えることに繋がるという信念である。

④徹底した外部評価

前項では、教師に対する有能観という価値観について述べたが、一方で結果の担保に対しても厳しいのがIBの特徴である。
IBでは、課程によって細部は異なるものの、基本的に担当教師が国際バカロレア機構の基準にもとづいて生徒の評価をした上で、更に外部評価をそこに加える。
担当教員が生徒への思い入れや贔屓感情などによって不当な評価をしていないかどうか、外部の目で二重に評価することで、より客観的な評価を目指している。

この外部評価と、教員による評価の食い違いがあまりに大きい場合、教員としての能力適正を疑われることにもなるため、必然的に教員も客観的な評価を意識せざるを得ない。

このように、教員の有能性を信じつつも結果に対してシビアに向き合うという姿勢を両立させている点が、プログラムとしての国際的な評価に繋がっている。

⑤「10の学習者像(Learner Profile)」

IBを端的に述べる際にもよく引かれるのが、この10の学習者像というものである。
IBが目指す教育理念を学習者像という形で表したものである。

Inquirers
探究する人
Knowledgeable
知識のある人
Thinkers
考える人
Communicators
コミュニケーションができる人
Principled
信念のある人
Open-minded
心を開く人
Caring
思いやりのある人
Risk-takers
挑戦する人
Balanced
バランスのとれた人
Reflective
振り返りができる人
(文部科学省HPより)

では、この学習者像は何が良いのか?
目指す教育ということであれば、文部科学省も「生きる力」といったビジョンを発表している。


「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力
(文部科学省HPより)


この2つを見比べた時に個人的に面白いと感じたのは、学習者像の「振り返りができる人」という項目だった。
その他の項目は、おおまかに「生きる力」の各項目に分類することができる。
しかし、この「振り返り」に関しては、「生きる力」からは読み取ることが難しい。

リフレクションという概念は、IBの中では特に重要視されているようで、授業の終わりの振り返りや学期の終わりの振り返りなどは徹底している。

日本の学校でも、振り返りを行っているところはある、という反論もあると思われるが、個人的な経験から言えば、当時その振り返りがどんな意味を持つのかよく理解できていなかったし、生徒に振り返りのできる人間になって欲しいという期待は感じず、ただ授業の成果が抜け落ちないようにしたい、という教師の意図を感じるのみであった。

生涯学習といったテーマに通ずるこのリフレクションという概念をいち早く教育プログラムの中にしっかりと組み込んでいる点は、非常に興味深いものだと感じた。




以上が、個人的にIBについて面白いと感じている点である。
ここには記述しなかったが、もちろんその問題点なども多く予想される。また、IB自体に価値があっても、文科省主導によるIB導入がうまくいくかどうかはまた別の問題である。

しかし、少なくとも学習指導要領の絶対性が揺るがされるという事態は、教育変革の可能性を感じるものである。
戦後新教育やゆとり教育のように、実証的な成果研究がしっかりと行われないうちに世論に改革の機運が握りつぶされないよう願うばかりである。

2014年8月2日土曜日

ビジョンの盲点

ビジョンを描いて接することが重要である、という話をこないだ聞いた。

ビジョンを描くことはなぜ大事なのか?
ビジョンとはなにか?

ビジョンとは、「達成したい最良の未来」を言語化したものだ。
それ故、ビジョンの根底にあるのはビジョンを語る人の根源的な欲望である。
心の底から達成したいと思えないビジョンは、ただの飾りにすぎない。

従ってビジョンが無いということは、したいことがよくわからないということに等しい。
したいことが分からない、という組織や人に対して、我々が価値を感じることは無いから、結果としてビジョンの有無は人への影響力、組織の推進力に大きく関与する。
チームのリーダーにとって最も重要な能力がビジョンを掲げる力であるということは、まさにこの点を言っている。


学習する組織では共有ビジョンという概念が提示されている。
これは、本質的に個々人に属するビジョンをチームで共有し、互いに納得できるまで抽象化した共通了解をチームのビジョンとして掲げることで、メンバーのコミット、組織の生産性を最大化するという考え方である。

こう述べていくと、ビジョンというものは大変魅力的な、それさえあれば何でもできるような魔法のように思える。


一方で、ビジョンに固執することの落とし穴もあるのではないか。


1つ目は、「万人がビジョンを持っている」という前提である。
共有ビジョンが上手く形成されない理由の一つは、個々人にまずビジョンが存在するという前提自体の危うさである。
自分はこれがしたい!と明確に言える人は、今の日本社会で実は少数なのではないか。
ビジョンを持つ人であっても、それが不都合な現実から目を背けた先の自己暗示であるということを否定しきれるほどに強い使命感を持った人は更に少ないと思われる。

まかり間違っても「ビジョンを持つことが素晴らしい」などといった固定観念を振りかざしてはいけない。そんなことをする権利は誰にも無い。
真のビジョンに目覚めた人ほど、自分のビジョンが自分だけのものでしかなく、他者の在り方を規定する権利などないという諦観を持っている。
そうした”先達”たる人々は、ただもがき苦しみながら自分のビジョンを探す人々をあたたかく見守り、求められた時だけ支援するのである。

それでも共有ビジョンを目指すのであれば、我々に残された選択肢はもはや共有ビジョンという奇跡を信じることしかない。
一人ひとりがビジョンに目覚めてくれるという可能性をただ心の底から信じ続け、関わり続けることだけが、唯一の方法である。


2つ目は、ビジョンの本質が個人の欲望である以上、他者と関わる際に常にそのビジョンは独善性をはらむということである。
リーダーが陥りがちな陥穽は、自分のビジョンがチームの共有ビジョンであると錯覚してしまうことだ。
「誰かを幸せにしたい」という素敵なビジョンは、幸せにして欲しいと思っていない人にとっては単なる迷惑でしかない。
掲げたビジョンの美しさに酔って、独善的に暴走する”ビジョナリー”なチームは、見るに耐えないものがある。
だからこそこうした落とし穴を理解している人・組織は、リフレクションに重きを置くのである。


本当のビジョンを持つためには、見たくないものを見る覚悟を持たなくてはならない。
他人を傷つけ、他人に傷つけられる覚悟を持たなくてはならない。


最終的に人を動かすビジョンは、面白さや楽しさよりも、傷だらけになりながらも貫き通されたことで磨かれた輝きと重みを持つ。
積み重ねられた過去にこそ、我々は物語性を見出すからだ。

結局のところ、我々の自覚する使命なんてものは虚構でしかないのかもしれないが、少なくともビジョンが与えてくれる力は、はかりしれない。

そうした力強く鍛えあげられた信念に憧れる気持ちを消化できないうちは、まだまだだなあと思う。

2014年7月8日火曜日

希薄な現実感と意味的動物

現代は、現実感が希薄になってきている時代である。
そんなことを、高3の頃、吉見俊哉先生の本で読んだことがある。

まるでゲームのように人生を生きる人々。
文脈を無視し、おもしろおかしくストーリーを作り上げるマスメディア。

現代社会では、確かに生身の圧倒的なリアリティを感じることが少ないように思う。

社会学的な視点から言えば、情報の氾濫によって、より分かりやすい情報(=物語的、ネタ的)が取り上げられるとか、ベックの言うリスク社会化によって、自身の人生にオーナーシップを持たない人が増えているとか、そんな考察になるのだろうか。

一方で、人間の本性に立ち返ったとき、「人間は意味的動物である」というV.E.フランクルの言葉が思い返される。

人間は、どうしようもなく意味を求める。
それは根元的な欲求である。

我々のメンタルモデルとは、無機質な現実に何らかの意味を与える視座なのだ。
信念とは、その無味乾燥に現前する現実に耐えられずに生み出された拠り所なのかもしれない。

実は、現実はどうしようもなくカオスで、圧倒的に無意味だ。
物語のように分かりやすく一貫性を持った人など実際にはそう居ないし、その在り方が自然だとも僕は思わない。

しかし、そんな風に究極な不安定な世界で、何を確固たるものとして信じれば良いのか、という問いに対し、デカルトをはじめとして挑んできた人々がいる。

そんな中で僕が一番共感しているフッサールは、知覚が欺かれているとしても、現に私が”そう感じている”という現象は確かなものである、とした現象学を打ち立てた。

興味深いのは、現象自体を判断停止するという現象学の姿勢が、現象に意味を与えることをとどめているところだ。
解釈された瞬間に意味性を持ってしまう現象を、判断停止することでそのままに受け止めようとする。
そこには、フッサール自身が危惧し、当時すでに失われつつあったリアリティの回復という志向が、どこかしら存在していたのではないか。


意味を求めることが、悪いというわけではない。それは人間の自然な在り方だ。
しかし、意味を求めていることに自覚的になったとき、現実を見る視点の幅が広がる。

僕は、せめて自分が生きている意味を見出すのならば、「この時代のこの場所に生まれ、今ここに生きている」という実感から出発せざるを得ないと思っている。

だからこそ、「今、ここ」を見極めたい。
虚構の世界で夢を見て死んでいくよりも、無意味な現実を自分の実感を頼りに踏みしめて生きていたい。
そんなささやかな意地が、自分を自分たらしめている。

2014年7月7日月曜日

教育が最低限果たすべき役割とはなにか?

教育が最低限果たすべき役割とはなにか、ということを考えている。

教育を考えるとき、大きな2つの視点として、政治的・経済的・社会的に求められる教育の機能と、教育される個人にとって必要な機能がある。

前者は、民主主義存立の条件であったり、経済成長のための人材育成であったりする。
後者は、自己実現や自己創出といったキーワードと結びつく。
両者の妥協点に、教育という営みが実現されている。
教育とは、本質的に二重に目的を持つものなのである。

ここで課題となるのは、「はたして他人を教育できるのだろうか?」という根本的な問いである。
前述の通り、他人を教育するとは、自分の利益となるように、他者の自己創出を支援するということだ。
それはつまり、win-winの思想である。

しかし、教育は同時に非対称な関係性も内包している。
教育者は常に被教育者に対して権威を持つ。
このとき、本当に互いに納得の行くwin-winが実現されるのは非常に難しい。

そもそも教育が他者を変容させるということは、たとえ蓋然性の高い事実であったとしても、Aと入力したらBと出力されるといったような科学的な作用でもないし、それが被教育者にとって本当に望ましい介入なのかどうかは、被教育者本人にしか分からない。

結局のところ、全ての教育的営為はお節介の域に留まるしかないのである。

それでも人が教育したいと願い、されたいと思うのは、根源的に他者との繋がりを求めるからなのかもしれない。
人は独りで生きていくしかないのにもかかわらず、独りでは生きていけない。
決して分かり合えないからこそ、分かり合おうと求めるエロスの衝動が人の本性には息づいている。

だとすれば、教育者として持つべき矜持は、対象を承認し、認め、繋がりを保つことではないだろうか。例えどんなに「下手くそ」な教育しかできないとしても、他者を承認する、ということだけが最低限守るべきラインなのかもしれない。

他者を承認する力というのは、人間誰しも与えられた力なのではないか。
なぜなら、誰もが他者に認められたいと願っているからだ。
その苦しみを生まれながらに知っている人間という生物だからこそ、他者を承認することができる。
自分の生を肯定されたかったように、他者の生を肯定することができる。
それが本来人間に与えられた祝福ではなかったのだろうか。

実際に今の社会、現実がそうなっているかと言えば首肯しづらいところはある。
他者を肯定するためには、自分を肯定することがまず必要だし、そうさせてくれない環境が根深く絡みついている。

しかし、だからこそ本来の自分の在り方を見つめなおすべきなのかもしれない。
誰しもが他者を認め合える社会などユートピアかもしれない。
けれども、他者を認められないというその現実こそが、自分を認めて欲しいという苦悩の証左であり、それを超克していく可能性なのだと思っている。

2014年7月1日火曜日

水村美苗『日本語が亡びる時―英語の世紀の中で』2008

良質な日本語の文章というものは、かくも心地よく、熱量を持って人を惹きこむものなのか。


先日所用で参加できなかったインテグラルエジュケーション研究会の課題図書である。

内容に関して軽くまとめると、筆者は言語を<普遍語>、<国語>、<現地語>の3つから捉える。
<現地語>とは、その地域で流通している言葉であり、書き言葉を持たない言語も含まれる。
<国語>とは、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」とされる。

では<普遍語>とはなにか?

<普遍語>とは、<国語>の枠を越えた言語である。
数ある<国語>の中で一番使われている言語、というだけではなく、叡智を求めるために使われ、読まれるべきものとなる言語である。
中世ヨーロッパではラテン語であり、近代では英語・ドイツ語・フランス語の3語であった<普遍語>は、まさに最高に美しいもの、究極の真理を求めるための言語として<普遍語>であった。

そうした学問の言葉としての<普遍語>に対し、学問を乗り越えるものとして文学の言葉として<国語>が成立してくる可能性が生まれる。

明治時代、大量に流れこんできた欧米の叡智を前にして、まず日本人は片っ端から海外の書物を翻訳しようとした。翻訳とは、普遍語で書かれた叡智を、意味を変えずにその地域で伝わるような言語形式に置き換える作業である。
現代でも使われている多くの単語が、この時代の外国語の翻訳であったという事実からも「日本語に翻訳される」という作業を通じて、現地語が国語へ移行していくプロセスを見て取れる。

しかし、そうした翻訳を続けていく中で、人文系の学問などでは単に翻訳されただけの言葉では適切に自国の状況を説明できないという悩みに突き当たる。
夏目漱石の英訳が冴えないように、決して翻訳できないものが国語には存在するからだ。
そうした微妙な表現できないものをなんとか表現しようとして国語は洗練されていき、黄金の日本近代文学の時代を作り上げた。

英語が普遍語となりつつある現代における日本語の危機は、叡智を求める人々が叡智を求めるが故に英語ばかりを読み、日本語を読まなくなり、日本語が滅びていくことである。叡智を求める人々が日本語を読まなくなれば、書き手も日本語で書かなくなる。
そうした悪循環がまさに始まろうとしているのが現代であると筆者は指摘する。

最後に、筆者はこうした悪循環を生んだ要因は日本語教育の観点から論じ、国民全員が「書く主体」となることを目指した悪平等の教育理念から、国民全員が読まれるべき日本語文を読むようにする、という理念への転換を求める。
それは、書き言葉が単なる話し言葉の文字化であるとする「表音主義」に異を唱え、時空を超越した世界との繋がり、そして人類がこれまで蓄えてきた叡智を刻む言葉としての「書き言葉」の本質に立ち返るべきだという筆者の主張である。


以上が僕の理解したこの本の要旨だ。

この本で一番感動したのは、内容もさることながら、その文章の巧みさ、味わい深さである。
読み進めながら、質の高い日本語文章の心地よさ、そして直接心に染み入ってくるような感覚を久々に思い出した。

最近翻訳本などばかり読んでいたからかもしれない。もちろん、翻訳が悪いというわけではない。
ただ、日本語を愛し、日本語に熟達した人が、その思いを日本語で表現するとここまでの文章になるのか、とすっかり感服したのである。それはほんの些細な、微妙なニュアンス、リズム、言い回し、単語、などなどあげれば切りがないほどの「言語の壁」であり、決して翻訳可能なものではない。

筆者は、叡智を求める人が英語ばかりを読み、それによって書き手も英語ばかりで書くようになることで日本語が亡びていくという展望を示しているが、僕はもう少し楽観的である。
この文章を読み、確かにこの文章は日本語でしか書けないと感じられるということは、日本語でしか書かれないことがあるということだ。

他の言語では決して捉えられない日本のリアリティは、日本語でしか書くことはできない。
叡智を求めるという行為が、現実を離れた夢想のような所業に終わらず、現実を更新する強い意志に支えられたものであるならば、彼らが見据えた現実はきっと日本語で表現されるべきなのだと思う。
普遍語に対する国語としての日本語の危機こそが、再び日本語を煌めかせるだろうと、漠然と思っている。


密かに僕の夢に、水村氏のように美しく、人の心を打つ日本語文を書けるようになる、という夢が加わった。