2015年5月25日月曜日

「教育の多様化」は手段でしかない

多様な子どもに合わせた多様な教育を展開すべきである、という言説について。

教育に熱い思いを持っているとされる人たちにおいて、上記の言説は広く支持されているように思う。
しかし、教育社会学的には、「教育の多様化」を推し進めることのリスクはよく語られてきた。

教育の多様化を進めることの問題点は一言で言ってしまえば、「強い者が得をする」ことにある。
選択肢が多様になれば、その選択肢の幅の広さ、それぞれの選択肢をとった場合のメリット・デメリットをしっかりと把握している者にとっては、選択が与えられていない場合よりも満足度の高い解を見つけ出せる確率は高くなる。

しかし、そもそも情報を持っていない、情報を得る術を持たないような人々にとっては、最適な選択肢を選べる可能性はむしろ低くなる。質が高いとされる選択肢は、「強い者」によって選ばれやすくなるからだ。

結果として、格差の拡大、固定化が進む。
選択肢の多様化は、最終的に自己責任論へと帰属させられるのである。
「より良い選択肢があったはずなのに、それを選べなかった個人が悪い」という論理になってしまう。

では画一的な教育で良いのか、と言われれば、それはもちろん別の問題を孕んでいる。
一人ひとりに合わせた教育が必要になる場面は間違いなくある。
しかし、少なくとも「教育の多様化」は、これまでの教育で報われてこなかった人々を救うものではなく、その中でもごく一部の「強い」マイノリティを救うだけの改革になる危険性がある。

僕は実際に子どもを個別に指導しているとき、その子に合わせた指導を自分にできる範囲で模索する。
子どもが変われば、またその子に合わせた形で指導を変える。
他でもない自分自身がその子の前に立つのであれば、その子にとって最も良いと思われる教育を模索し、実践することが自らの教師としての責任だと考えるからである。

つまり、実際には「多様化」は理念ではなく、手段に過ぎないのである。
その子にとっての最善を考えるから、教育手段が多様化するのであって、多様化すれば最適なものが見つかるわけではない。
どのような教育をすべきか?という当為をやはり考えなくてはならない。その目的を達成するための手段などは、文脈に応じて変えていけば良いのである。

ここにきてカビの生えたような「当為論」かと思う人もいると思われるが、個人的にはこれは外せないところだと思っている。
そしてひょっとしたらそのあたりの端緒を開くのは、シュタイナーの「精神の自由による教育」という捉え方なのではないかと考えているが、そのあたりはまた別の機会に書いてみたい。

2015年5月22日金曜日

フリースクールの公教育化について個人的備忘録

フリースクールの公教育化が騒がれているが、個人的に前々から興味を持っていたテーマだったので、この機会にまとめてみることにする。

フリースクールの公教育化は、2014年8月の教育再生実行会議の第五次提言を受け、2015年1月から文部科学省が有識者による検討会議を設置するなど、動きが活発化している。
超党派の議員連盟による「多様な教育機会確保法」法案の提出も同時並行で行われた。(2015.5.22付 朝日新聞デジタル版http://www.asahi.com/articles/ASH5M55LQH5MUSPT00D.html)

フリースクールの公教育が進められているのは、もともと不登校問題への対応を中心としてフリースクールが広まっていった結果、不登校児は約11万人にものぼり、正確な数は不明であるがフリースクールの数も全国で400~500程度と、無視できない規模の子供が現状の公教育システムから逸脱していることが背景としてある。

また、フリースクールが一般に抱える問題として、経済面での困難があり、保護者に高額の学費を強いることになったり(二重学費)、スタッフ不足などの問題が常態化している。そこで、現場からは公的な支援をフリースクールへと導入することの必要性が長らく叫ばれてきた。

一方で、フリースクールを公的な支援下に置くということは同時に、フリースクールが公的な規制と評価を受けるということでもある。ここに、フリースクールの持つ自主性や独自性、自律性が、質保証のための規制や評価の目によって侵害されないかという懸念が生まれ、重要な論点となっている。



土方由起子(2011)「フリースクールの公教育化についての検討:「多様化」言説の陥穽」では、こうしたフリースクールの公教育化は、不登校支援に対する新しい方向性であると意義を認めつつも、フーコーの「近代化装置」という概念を援用し、「装置」から逸脱した存在であった不登校が、「既存の学校に復帰しなくてもよい」という「恩恵」を与えられることによって、再び「装置」の中に回収され、結局子供たちが「規格化」されてしまうという恐れがあることを論じている。
特に興味深かったのは、フリースクール側からの公教育化を求める背景にある理念として、「多様な子供のための多様な教育」があり、これは1980年代以降の様々な新自由主義的改革に通底する「教育の多様化」と結びついているという指摘である。「子どものため」という大義名分の下で、公教育における親の「選択」の余地が広がった結果、そうした選択の責任が親に帰せられてしまうという指摘は、真摯に受け止めなくてはならない。

武井哲郎、金志英(2011)の「公教育の担い手として認められるということ―日韓のオルタナティブ・スクールを事例として」では、実際に公的な認可を受けたオルタナティブスクールの事例について、日韓それぞれの学校に対するインタビュー調査で比較しており、公教育化によって教師や親に変化があらわれてきていることを示した。

永田佳之(2005)の「オルタナティブ・スクールと教育行財政に関する国際比較―質保証と公費助成の分析を中心に―」では、諸外国のフリースクールに対する公的支援を類型化している。中でも、積極的な経済的支援を行いつつも、フリースクールの自律性や独自性を最大限保証するような評価、規制の在り方を実現しているデンマークの事例は特記に値する。


このように概観すると、フリースクールの公教育化は様々な問題をはらんでいることが分かる。
しかし、個人的には賛成したい動きでもある。
アクティビズムの視点から捉えれば、既存のシステムに包摂されなかった層が、システムを変革しようと訴えかけた結果とも見ることが出来る。
もちろん、土方が懸念するような「近代化装置」への回収という視点も忘れてはならないが、回収されていく層は同時に「装置」を変革していく積極的な主体でもあるはずだ。
少々楽観的にすぎるかもしれないが、僕は可能性に期待してみたい。

公教育もまた、再帰的に自己組織化するシステムとして構想されるような時代に来ているのかもしれない。

2015年5月15日金曜日

社会課題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?

現在の仕事の関係上、社会問題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?という問いについて考えている。
「当事者意識(オーナーシップ)がある」とは一体どのような行動から判断されるのだろうか?

ここでは当事者意識の定義は、「自身がその課題や現象、状況に対して関係している、責任をもっているという自覚」のことを指すものとする。

当事者意識という言葉が暗に想定しているのは、「客観的に当事者であるにもかかわらず、その自覚がない」「客観的には当事者ではないが、主観的には当事者であると自覚されている」という2つの状況である。

前者の場合、例えば自分の与えられた業務、責任を全うできていない時に「もっと当事者意識を持ちなさい」と言われることになる。
逆に言えば、当事者意識を持っているということはこの場合、「定義された業務をそつなくこなし、目標をしっかりと達成する」ことである。

後者の場合興味深いのは、客観的には当事者ではないため、「当事者意識を持て」という言明は生まれてこないことである。「当事者意識を持って欲しい」としか言うことはできない。
例えば、会社内の別の部署の成績にまで当事者意識を持つのは通常は難しいし、会社もそれを強要することはできない。
もしそれが要求されるのであれば、与えられる権限と報酬も妥当な水準に高められる必要がある。

後者の用法で目指されているのは、「役割を越えた協働」である。
「役割を越えた協働」では、与えられた権限、業務の範囲を越えたところにまで、自責的な意識を持つことで、与えられたものをただこなすだけではたどり着けない成果を生み出すことが意図されている。
この場合、「当事者意識がある」という状況はどの程度「本来の役割を越えた範囲で全体へ貢献できているか」ということになる。

問題は、こうした「役割を越える」ことが過剰に礼賛された結果、本来やるべき「役割」が疎かにされることである。
例えば、マネージャーが飲み会などのイベントを沢山企画してくれたり、勉強会などに頻繁に出席して役立つ知見を紹介してくれたりしていても、肝心のマネジメントを怠っていたらそれは本末転倒であり、むしろ最初に述べた責任感的な当事者意識が欠けているといえる。

こうした事態が起こるのは、スコープがしっかりと定義されていないことに要因がある。
与えられた責任がまず明確に定義されていないと、そこをしっかりと「越える」こともできないのである。


冒頭に述べた社会課題への当事者意識、という文脈で考えるならば、社会の成員としてまず成すべきことをしっかりと成すということ、成すべきことはなにかということを明確に自覚することなしに当事者意識が健全な形で働くことはないのではないかと思う。

ソーシャルビジネスの文脈では、やりたいこと=ビジョンが最も重要なものとして語られることが多く、「あなたのやりたいことはなにか?」という問いが溢れている。
確かにビジョンがなければ、役割をどう越えるかという方向性が決定されないため、ビジョンは重要である。
しかし、それと同時に問われるべきは「自身は何を成すべきか?」という問いではないだろうか。
自身が成すべきことはなにか?という問いに明確に答えられない人間には、やりたいことなんてものは単なるお伽話でしかないように思えてならない。

2015年4月27日月曜日

「メンタルモデルは暴くべき」というメンタルモデルについて

メンタルモデルと聞くと、とりあえずそれを暴き立てることに注力するようなことは無いだろうか。
メンタルモデルとはごく簡単に言ってしまえば固定観念であり、固定観念に則って何かを認知し、判断することは正すべきことであるかのように語られることがままあるように思う。

『学習する組織』の著者、ピーター・センゲは、メンタルモデルについて、学習を阻害する大きな要因であると述べつつも、むしろその力を学習を促進するために使えないかという提起をしている。
また、センゲによれば、「メンタルモデル自体が良いとか悪いとか言っているのではない」。

本来、メンタルモデルというものは、人間の認知を助けるような働きを持っている。
それは学習の成果であり、メンタルモデルを利用することで、認知と判断に関わるコストを減らすことができる。
また、メンタルモデルは思考を規定するものであるから、メンタルモデルをうまく利用することで特定の状況における学習を促進することができる。
センゲが言及しているのも、こうしたメンタルモデルの正の側面の積極的利用についてである。


しかし、メンタルモデルは確かに学習を阻害する要因にもなりうる。
学習というものを自らの既存の世界観の地平を越えることであると定義するならば、まさにその地平を強固に形作っているものがメンタルモデルであるからだ。
その境界が強固であればあるほど、それを越えるのは苦労を要する。

例えば、「他人に対してNOを言うと、その人に嫌われる」というメンタルモデルを持っている人は、なかなか他者に対してしっかりと拒否を伝えることができないということがある。
そうした人に対して、いかに論理的に他者に対して拒否を伝えることが必ずしもその人に嫌われる結果を生まないということを説得しても、根本的なメンタルモデルを変容させることは難しい。

というのも、そもそもメンタルモデルというものは普段自覚されないものだからである。
前述したように、メンタルモデルは私たちの認知のプロセスの一部を無意識的に行うことでメリットを生み出しているので、自覚されないことが当然である。

従って、本質的な学習の第一歩目は、メンタルモデルの自覚から始まる。
越えるべき境界をしっかりと捉えることが、肝要なのである。


以上のような理由から、メンタルモデルというものは一般に明らかにするべきものであり、特定のメンタルモデルに縛られるということは端的に言って「良くない」ことであると思われがちである。
その言説自体が間違っているとは思わないが、問題はメンタルモデルのデメリットが強調されすぎて、本来メンタルモデルの持つメリットが過小評価されてしまうことにある。

センゲが『学習する組織』で提唱していることを自分なりに意訳するならば、「メンタルモデルの影響というのは逃れ得ないものであるのだから、その影響を出来る限り自覚的に最大化しよう」ということである。

あらゆるメンタルモデルに囚われずに現実をありのままに見つめるということは、困難を極める。
そうであるならば、特定のメンタルモデルに依拠してしまう事実を受け入れた上で、可能な限りそれに気づきつつ、どのようなメンタルモデルを持てばより学習が促進されるのか、と問うべきだ、ということである。
すなわち、『学習する組織』はより良いメンタルモデルを築き上げていく方法論なのだ。


メンタルモデルを暴くことが目的化してしまうと、そこに残るのは危機に晒されたアイデンティティと、固定観念に囚われずに世界を見ることができるという幻想に囚われた傲慢な自己のみである。

絶え間ない学習には、虚構に気づきつつ、それを積極的に乗り越えようとしていくような在り方が必要とされているのではないだろうか。

2015年4月8日水曜日

【イベントレポ】「かわいそうだから助ける」への疑問と地域の可能性について

先日参加させていただいたイベントの感想と考えたことについて。

こちらのイベントに参加してきました。
http://www.earthday-tokyo.org/2015/04/02/2175

講師は、一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事/自立生活サポートセンター・もやい理事の稲葉剛さんと、NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク理事長の栗林知絵子さん。

就労よりもまず入居を支援することの必要性


稲葉さんは、ホームレスを中心として、湯浅誠さんらと共に長年貧困問題に取り組んできた方である。
そのお話では、住まいの支援が如何に重要かということを強調されていた。
一般に、貧困問題というと就労支援が主な支援としてクローズアップされることが多いが、それよりもまず住まいをしっかりと確保することが何よりも肝要であるという。(ハウジングファースト)

その理由は、まず、住宅が無いということは生死の問題に直結するということがある。
冬の厳しい寒さの中、野宿を強いられることは、特に高齢のホームレスの方にとっては軽視できない危険なことである。
実際に、稲葉さんはホームレスの方々に夜、声をかけて回って安否の確認をする夜回り活動の中で、救急車を呼ぶ事態に出会ったことがあるという。
過去の稲葉さんの調査によれば、そうした路上生活者の死者数は新宿区だけで年間40人程度にのぼることもあったらしい。

また、路上で生活するまでは行かずとも、審査に通らず住宅に入れないためにネットカフェや脱法ハウスに住む人々も存在する。(東京都ではネットカフェ規制条例によって、現在は脱法ハウスを利用する人が多いようだ)
しかし、実際のところネットカフェなどに一ヶ月宿泊し続けると、月5万円程度と決して安くない費用がかかる。
つまり、こうした通常ではない住環境にいること自体が、貧困から抜け出すための足かせとなってしまっている。

年越し派遣村で話題になった派遣寮も、不安定な住環境である。
こうした派遣寮は、派遣社員を募集する際に、住宅や家電付きであることを売りにして募集をかけるため、応募する人々はそうした支援を期待して応募する。
しかし、ひとたび景気が低迷し、「派遣切り」が行われると、こうした寮を寝床としていた人々は住居を失う。
また、こうした派遣寮は、社宅とは違い、家賃も相場並で結局働いた分の多くを家賃にとられてしまう仕組みになっていたり、家電の利用料が設定されていたりと、決して恵まれた環境ではない。

こうした人々の中には、精神的、知的な障碍を持つ人々も一定数いる。
全国的に空き家、空き部屋が増加し、有効に利用したいと考えるオーナーは多いにもかかわらず、そうした人々とは契約したくないと考える人は多い。

「かわいそうだから助ける」の問題点

印象的だったのは、「かわいそうだから助ける」という意識の問題について稲葉さんが語っていたことである。
生活保護や貧困の問題は、テレビ番組などではその「かわいそうさ」を強調するような報道が主流であり、「かわいそうだから支援すべきだ」という考え方が日本ではどこか根強いように感じられる。

しかし、「かわいそうだから助ける」というのは、「かわいそうじゃなかったら助けなくていい」ということと表裏一体なのではないかと稲葉さんは言う。
ある芸能人の母親が生活保護を不正に受給していたというニュースが、連日のように報道されて多くの人々がそれに便乗したように、かわいそうに見えない人が不正に支援を受けることに対して日本人は非常に怒りを感じるのである。

だが、生活保護の捕捉率は依然として2割程度という低い水準であり、助けられるべき人の多くは支援を受けられていない。
そもそも、健康で文化的な最低限度の生活が保証されるべきなのは、そうじゃないと「かわいそう」などといったロジックの次元ではなく、人権の観点から成立している普遍的な原理である。

確かに、税金を無駄に使われているのだから、不正受給に怒りを感じるのはもっともだ。
しかし、生きることを保証するというのは、それ以前の問題である。
生活保護を受けることは恥だとおもうべきだと述べた政治家が居たらしいが、恥ずべきはまず我々の人権意識の未熟さではないだろうか。

また、こうした問題に取り組む人々も、「かわいそうだから助けるべき」というロジックで訴えかけていないか、自戒を込めてしっかりと省みる必要性があると思った。

「地域の子どもは地域で育てる」

もう一方の講師、栗林さんは、豊島区池袋で子どもの支援をされている。
無料学習支援、プレーパーク、子ども食堂という3つの事業をされていて、子どもをとりまく問題について幅広い角度から支援を行っている点が素晴らしいと感じた。

設立からまだ4年程度と短い時間しか経っていないにもかかわらず、包括的に支援を実施できている理由は、栗林さんの行動力と、地域という枠組みのポテンシャルだと思う。

もともとは栗林さんが地域のある子どもの受験勉強を手伝い始めたところから、活動は始まった。
勉強を教えるために、大学生が必要だから知り合いの大学生に声をかける。
地域の子どものことは、地域で支援するという考え方から、地域の人々からカンパを募って受験のための資金を集めた。

もちろん実際にはもっと多くの苦労や過程があったのだと推察されるが、簡単に言ってしまえばそうした活動が地域の人々の共感を呼び、巻き込み、いつしか団体設立ということに繋がったのだと思われる。

地域の中から弁護士や精神保健福祉士といった専門性を持つ人々がゆるやかにつながり、各々のできることを活かして支援が広がった。
安いお金で子どもたちに健康でバランスのとれた食事を提供する子ども食堂も、地域の人々からの申し出があって場所を確保することができたとのことである。


こうしたモデルは、この先もっと広がっていくのかもしれないと感じた。
「地域の子どもを地域で育てる」という考え方は、実は理にかなっている。
無縁社会と呼ばれるような現代社会、ましてその象徴とも言える池袋という都会の地で、こうした社会を結び直すような試みが着実に成果を上げていることは、大きな希望の光だと思う。






2015年4月2日木曜日

H.R.シャファー『子どもの養育に心理学がいえること』1990

「家族の貧困は、子どもの発達に影響するか?」「最初の愛着形成はいつまで遅れて良いか?」
といった、発達心理学から、子どもの養育についてどんなことが言えるのか?という興味を持っている人にとって絶好の入門書だと思った。

上記にあげたような20のテーマについて、信頼できる研究を並べ、学術研究としていえる書かれた時点での結論を慎重に述べている。
ただし、扱っている段階は乳幼児、児童期にどちらかというと比重がおかれている(もちろん縦断的な研究も数多く含まれるので、青年期や成人期について言及している箇所は多くある)


概してこうした研究から得られる示唆は、必ずしも臨床の場においてはっきりとした問題解決の方針を示してくれるわけではなく、十分な追試が行われていない研究を確たる証拠のように扱ったり、研究の結論を拡大解釈したりしてしまう風潮に対して、最初に注意を促している。
その点でも、僕のような初学者にとってはみだりに衒学的になることを戒めてくれる良書だと思う。


残念な点としては、書かれた年が1990年(その後1998年に大幅に増補した二版が発行され、本書はこの二版の訳である)であるため、2015年現在では、さらなる知見がもたらされている可能性がある。

しかし、心理学にかぎらず、こうした研究はいくつもの実証研究によって支持されることで初めて基本的事実として合意されるのであり、書かれた時点で過去の大量の研究から信頼できる示唆を得ている本書の価値は、さして変わらないと思われる。

特に興味深かったのは、様々な子どもの不健全な発達における、環境―素因という古典的な対立に対し、積み上げられた研究はいずれも環境と素因(気質)の組み合わせから要因を考えなくてはならないことを示していることである。

これは現場に携わる者としてはすなわち、子どもの可能性というものを信じる拠り所であり、同時にまるで全ての責任を親、特に母親に帰属させることを強く戒めるものである。

愛着形成がうまくいかなかったからといって、全ての人が愛着欠損性格になるのではない。
また、乳児期、幼少期のトラウマ体験も、その後の家庭環境次第で影響は克服されうる。

明快な結論を求める人にとっては、どこか釈然としない話かもしれないが、結局それぞれの分野、段階で子どもの発達に携わる人々が、それぞれやるべきことをやるしかないということなのである。
そしてそれは、決して悲観的な結論なのではなく、それぞれの仕事に十分に意味があるという未来ある啓示なのである。

厳密な科学的知見というより、なんだか勇気を貰えるような本である。

2015年3月27日金曜日

【イベントレポ】「学びに困難を抱える子どもたちを支えるために―エクストラレッスン その理論と実践」

掲題の講演に参加してきたので、学びをメモしておく。

まず、エクストラレッスンについては、イベントの告知文から説明を抜粋すると、下記のようなものである。

エクストラレッスンは、1960年代、イギリスのシュタイナー学校の教師をしていたオードリー・マカレンが、学習に困難を抱える子どもたちを助けるために開発し始めたもので、ルドルフ・シュタイナーの「全人的な人間の発達という視点に立ったこどもの教育」に基づいています。こどもの幼少期の発達が、その後の学習や行動そして振る舞いにおける基礎を築くという視点に立っています。エクストラレッスンでは、宇宙や自然界にあるフォルムの動き、重力と拮抗する床での動きを取り入れたエクソサイズや治癒的な働きのある水彩などを繰り返し行うことで、こどもたちのポディジオグラフィー(身体的認識)と空間認識を育て、感覚の統合を助け、こどもの意志を伸ばし、その能力と個性の開花を促し、ホリスティックに子どもの困難に治癒をもたらします。

講師のマリアン・ジャッド氏は、オーストラリアで臨床心理士、エクストラレッスンプラクティショナーとして20年ほど活動し、教職経験に加え、エクストラレッスンについての論文で博士号も持っているなどプロフェッショナルの方だった。

午前の部では主に「学習に困難を抱える子ども」とはどのような子どもたちなのか?なぜ困難を抱えるようになったのか?といった話が中心であり、午後は質疑応答、エクストラレッスンの概要、実践の一部を体験するワークショップ、ジャッド氏のPHT法によるアセスメントの研究についてなどを学んだ。

学習に困難を抱える子どもたち

エクストラレッスンが対象にしている「学習に困難を抱える子どもたち」は、端的に言えば、ADHD、軽度の自閉症スペクトラム障害、ディスプラクシアの子どもたちのことである。
どれもはっきりとした要因は分かっていないのが現状だが、有力な仮説をもとにして簡単に説明すると、下記のようになる。


ADHDは前頭前野の発達遅延により、情報や運動の統合機能が適切に働いていないために、知能は正常にもかかわらず、多動や注意力散漫などが観察される。

軽度の自閉症スペクトラム障害とは、一昔前でいうところのアスペルガー症候群であり、社会性の欠如や常同的行為が観察される。

ディスプラクシアは、計画的な行動や順序立てたタスク処理、文字を書くなどの微細な運動に困難を抱えている。
(オーストラリアでは2006年の調査で学校に通う子どものうち約22%の子どもがディスプラクシアであり、その多くは病識がないあるいは適切な支援を受けられていないとのこと)


こうした子どもたちは、例えば聴覚でいうと本来ならば気にならないような音まで聞こえてしまう「聞こえすぎ」の状態にある。
情報に適切な意味付けができないため、情報過多の状況となり、常にストレスを感じて疲れやすくなったり、イライラしたりしてしまう。

これらの困難は、基本的に感覚処理に障害があることが分かっており、7歳までに健全な発達を完了してこなかったことが深く関わっている。
こうした考え方は、神経系の可塑性(neuro plasticity)という、感覚・運動刺激が脳の発達に影響をおよぼすという概念にもとづいている。
つまり、適切な刺激や運動によって、適切な神経系の発達が起こってくるという考え方である。
したがって、エクストラレッスンはまさにその核となる感覚処理に働きかけるものとして開発された。

シュタイナー教育では、発達を7年ごとに捉え、最初の7歳までの段階では、肉体の発達が重要であるとされている。
ジャッド氏もこれを支持し、この最初の7年の発達が健全に行われることが、その後の学びを円滑に進めるための土台となるということを繰り返し述べていた。

原始反射(primitive reflex)

では、健全に発達してこなかったとはどういうことだろうか?
ジャッド氏によると、それは原始反射が適切な時期に抑制、完了せずに残存したまま年を重ねたということである。

原始反射とは、脳幹によって自動的に引き起こされる身体の運動反応であり、基本的に生まれた時点ですでに幼児は獲得している。(胎内にいるうちから原始反射は始まっている)

例えば、下記のようなものがある。

・モロー反射
大きな音などに対して、闘争または逃避行動をとるための反応として現れる。
自律神経の発達に関わっているとされるため、免疫の強さや消化機能、バランス感覚、空間認識などの能力に関係してくる。

・ATNR
乳児の顔の向きに応じて、腕と足が進展する反応で、視覚系の発達に関係する。

・前方TLR
うつぶせの時に、腕で状態を支え、頭が水平になるように保とうとする反応。
ハイハイするための基礎となる。


こうした原始反射は、発達とともに抑制され、大脳皮質の理性によって行動を制御できるようになるが、適切に完了しなかった場合、先に述べたような発達障害などを引き起こすことがあるという。
また、原始反射の次に姿勢反射と呼ばれる姿勢を保つための運動能力が発現してくるが、ここにも影響を与える。
このため、エクストラレッスンはなるべく早い段階で受けた方が良いとジャッド氏は述べていた。

エクストラレッスンでは、こうした原始反射が残存しているかどうかを厳密なアセスメントによって測定し、残存している段階から支援を始める。

エクストラレッスンについて

エクストラレッスンは、まず厳密なアセスメントから始まる。
アセスメントは、プラクティショナーだけではなく、栄養士や検眼士、オステオパシーの治療師などと連携して行われる。

アセスメントは、まず比較的学校での振る舞いに関連する領域から行われる。
というのも、保護者が子供を連れてくるのは、ほとんど学校での振る舞いに何かしらの問題があるとされたことによるからだ。
具体的には、読み書き計算、友人関係、感情面などを評価する。

次に、原始反射の残存具合、姿勢反射が適切に発揮されているか、運動の質、バランス感覚、日々の健康状態、疲れやすさなどを見る。
また、成育歴や出生時および胎内にいるときの様子までヒアリングするようだ。
更に、簡単な視覚検査や聴覚検査、眼と手の協調性、利き手側の身体の統合性、微細運動、粗大運動の質、ボディジオグラフィー(身体の部分の位置関係の認識)などを検査する。
アセッサーとのコミュニケーションから、対人関係能力についても同時にアセスメントを行っているようだ。

こうした複数の領域に渡る厳密なアセスメントを経て、エクストラレッスンは、個々人に合わせた形でプログラムが組まれる。
こうしたアセスメントは、おおよそ20週間ごとのスパンをおきながら、繰り返し行われる。


エクストラレッスン自体は、週に一回のセッションであり、レッスンの無い日には、子供に合わせた宿題が出される。宿題といっても、ドリルのようなものではなく、基本的に運動である。
保護者の状況などで宿題をやり続けるのが難しい場合は、セッションを週2,3回に増やすなどの柔軟な対応をとることもある。

エクストラレッスンによる効果が上がり、完全にレッスンを完了できるのはおおよそ1年程度とのことである。しかし、近年では、子どもをとりまく問題が深刻化したことで2年ほどかかることが多くなっているらしい。
後述するが、特に聴覚的な刺激の質は現代において随分低下しているようで、主に運動面から働きかけるエクストラレッスンに加えて、聴覚にフォーカスした「リスニングセラピー」を併用することでより有効な改善が見られるようである。

エクストラレッスン成功の鍵は、まず子どもとの信頼関係を構築すること。
そして、適切なハードルのチャレンジ(リスク)を子どもに課し、成功体験を沢山積ませることだとジャッド氏は言っていた。

現代の子どもたちをとりまく問題

ジャッド氏は、現代の子どもたちをとりまく問題についていくつか述べていた。

・「選択する」という環境の増加
ジャッド氏は、幼少期の頃から、「何食べたい?」「どこ行きたい?」というように、子どもに選択を迫るようなことが現代では増えているという。
こうした選択は、まだ幼い子どもにとっては十分な決定を下すには圧倒的に情報不足であることが多く、大人がするべきことは状況にふさわしい決定を子どもに見せることであるという。

・好き嫌いの激しさ
これは、味覚の感覚が過敏になってしまっていることに関係があるのではないかとジャッド氏は述べていた。
味覚を過敏にするのは、加工食品などの過剰摂取によるところが大きい。
また、砂糖中毒とも呼べるような状況も多く見られるが、砂糖を摂取することで刺激される部分はコカインのそれと同じであることから、「子どもを麻薬中毒者にしたくなければ砂糖を減らしなさい」とジャッド氏は冗談めかして保護者に伝えるらしい。

・感覚刺激の強さ
テレビや、ボタンを押すと激しく音のなるおもちゃなどの視覚、聴覚刺激は、生まれて間もない子どもにとっては刺激が強すぎるそうだ。
そうした強い刺激を受けてしまうと、適切な発達に結びつかず、発達遅延を引き起こす恐れがある。
ジャッド氏によれば、2歳までテレビからは子どもを遠ざけた方が良いとのことである。


得られた示唆・感想

・厳密なアセスメントの重要性

「子どもはその子なりのスピードでしか発達できない」とジャッド氏は語る。
エクストラレッスンが効果を上げている最大の要因は、実は厳密なアセスメントによって、その子に最適なプログラムを提供していることなのではないかと感じた。
また、そうした子ども一人ひとりのために、専門家のあいだで連携体制がしっかりと構築できているところも、非常に先進的だと感じた。

子どもの発達に目を向けるということは、一人ひとりの子どもにとって最適なものを探り出そうとす
る子ども目線の教育の発展形である。

良い教育とはなにか、という問いは延々と議論され続けているが、多様な方法論の優劣よりも、そもそも徹底的に子ども目線に立とうとするその姿勢を何よりもエクストラレッスンから学ぶべきではないだろうか。
我々は「この教育は良い」と評価する際に、どれだけ子どもに着目しているだろうか?
子どもの感覚処理や幼児期からの成育歴までさかのぼって子どもへの効果を追求できているだろうか?
新しい、流行に乗った教育というだけでそれを賞賛するのは、大人たちの自己満足なのではないだろうか?


・「7歳までの発達が、その後の学びの土台となる」

これはジャッド氏が繰り返し述べていたことである。
幼児教育が学力に対して非常に大きな要因を持つことは現代ではほぼ基本的に合意されている事実であるが、この言葉が印象に残っているのは、現場で子どもを真摯に観察し続けてきたプロフェッショナルとして断言していたからだと思う。


・公教育への導入の難しさ

先に書いた厳密なアセスメントの負の側面として、コストの大きさがある。
一人ひとりの子どもに最適なものを見つけようとすればするほど、教育にかかるコストは膨大なものになる。
その意味で、エクストラレッスンにかぎらず、子ども目線からの教育はなかなか公教育で広げていくのが難しい。

しかし、この問題には解決の糸口もある。
一つは、それでも現場で多大な努力をし、成果を上げている教員の方が存在すること。
また、テクノロジー的な進歩(現状のe-learningを指しているわけではなく、可能性として)や、そもそもの教育にかかるコストという考え方についての転回によって解決できる可能性はあると僕は考えている。これについては後日改めて書いてみたい。

少なくとも、こうした徹底的な子ども目線の教育は、現状の学習指導要領に基づいた日本の公教育に対する強力なアンチテーゼであることは間違いないのではないかと思う。



簡単ではあるがメモをまとめてみた。
実際には、エクストラレッスンの実践の一部を体験させていただいて、自分の身体感覚が実は意外と統合されていないことに気付かされたり、ジャッド氏の博士論文のテーマである「PHT法によって、学びに困難を抱える子どもを見分ける事ことができるか?」という発表により、オードリー・マカレンの発達論が実証的に支持されることを話していただいたり、わざわざ東京から行った甲斐のある非常に学びのあるイベントだった。

一方で、脳科学や精神医学、臨床心理学、幼児教育学などの知識に乏しいために、話された内容を十分にクリティカルに検討できないことは歯がゆく感じた。
エクストラレッスンやブレインジムのような感覚運動を重視する教育法には批判があるのも事実であり、時間を見つけて知識を得ていきたいと思った。